2021年 旅行のキロク。

回想。2021年 旅行のキロク。

 

 

 2021年も終わろうかという暮れの27日から29日。二泊三日。私は小学校の頃からの友人と旅行に出かけた。
 鎌倉はいいところだった。文豪たちがこぞってその地で筆を進めようと思うことに納得がいく。

 


江ノ電から見える海の景色に茫然自失となった。

f:id:meejournal:20220323152155j:plain

 

 


江ノ島から見える夕日に立ち尽くした。

f:id:meejournal:20220323152318j:plain

 

 


真っ青な空と海がよく似合う場所。

遠くに見える富士山が他の山々の群を抜いて一際目を引いた。

f:id:meejournal:20220323152542j:plain

 

 

 あまりに美しくて、私が今まで訪れた中で一番自由で時間がゆっくりと流れ、海も空も全てが青く、眠たくて暖かい場所だった。
  それは、私が自由を手にして初めて訪れた旅先だったからかもしれない。お金も時間も気にせずに電車に揺られて、ポケットには少しの甘いものと、少々扱いにくい旅行鞄を引いて、好きな音楽を聴きながら、友に会いに行くために旅をして、そうしてたどり着いた場所。


 二日間の滞在は私に自由と息抜きと安らぎをもたらした。
 私のスマホは時々その時の写真を思い出の回想として画面に表示する。その度に私はもう一度あの地を訪れたいと願うのだ。


 今度はどこに行こうか。


 真夜中のダイナーに流れ着いて、早朝のコーヒーを頼むようなそんな旅がしたいのだ。
 ここから行先はどこにあるだろうか。
 その先に見られる景色にはどんなものがあるのだろうか。
 私はその先で何を得られるのだろうか。
 私は何を得たいの?私はどこに行きたいの?
 いつもこの疑問にたどり着く。定期的にこの質問を自問自答する。その答えは毎回毎回出ずに、次回へと持ち越される。
 私には何ができるのだろうか。
 まだ、未だ、感じるのは、もう少し持っていられるものを増やそうということだけ。もう少し、自分で判断できる材料を増やしてみようということだけ。
 最近納得した歌詞は、宇多田ひかる先生の「誰でもこんなに怖いものなのだろうか?」という一節。私が感じるこの恐怖は誰でも感じているものなの?私が恐れるこの思いは誰でも感じていて、その度に身が竦んで、それでも前に進もうと決心するものなの?

 

 帰る場所を探していて、それはきっと今の場所じゃない。今の場所はただ、仮置きされているようなもの。

綺麗だけど割れてしまいそうだと分かっていた

5/1 曇りのち雨
雨の降り落ちる音が好きだ。
午後からだんだんと雲行きが怪しくなってきていた空模様も、夕方には雨が降ってきた。丁度降り始めに外に出ていた私は「やっぱり持って来ればよかった」と去年の誕生日に妹が贈ってくれた傘を持ってきていないことを考えた。でも、雨に濡れるのはなんだか楽しくもある。

ariの曲_rain on me「let it wash away my sins」
__私の罪も洗い流して
雨が落ちて降りかかってくるのを感じている時、この歌詞を思い出す。雨と一緒に私の罪も一緒に洗い流してほしい。流れていった雨が、頬を伝う雫と一緒くたになって、そのまま、私をもう一度真っ白に戻して、と。

雨の日に思い出すことがもう一つある。
高校時代、傘を持ってくるのを忘れた3人の少女達は、全身ずぶ濡れになりながら、首から募金を呼びかける箱を抱え街中を駆け回った。雨が降ってきた時点で学校へとすぐに引き返さなかったのは、それがもう、とても楽しかったからかもしれない。
3人とも学校へと戻った時にはひどい格好になっていた。お風呂上りのように髪がびしょびしょで、制服が絞れるほどずぶ濡れで、下着まで雨が侵食していた。あんなにずぶ濡れになって駆け回ったのに、募金額が対して多くなかったのはご愛嬌だ。

きっと、これはこれからも忘れられない記憶の一つだ。なぜなら、あの時私が最も大切な友人でいたいと思っていた人たちと共有した大切な思い出だから。

 

 

会いたいと思える人がいることはとても幸せなことだ。

私はもう、実家には戻って住むつもりはないけれど、時々母と妹を抱きしめたいと思う。(ただし母が黙っている間だけ。彼女が口を開くと決まってお説教が始まる。)

 

 

あの時の約束はまだ有効なのだろうか。

私は時々、そのことを考える。
今はもう手にできないからこそより一層、忘れることもできない思い出は痛みとなって何度も私の脳裏に蘇る。
依然として囚われたままの私は、未だにあなたと選んだ飾りを外せずにいる。きっとあなたはとっくに外してしまったでしょう。
拭えない悲しさも忘れられない思い出も信じていいのかわからなくなってしまった約束も脳裏に焼き付いて離れない温もりも愛していることに気がつかなかった時間も、今ならわかる。私はこれからもこの愛おしい全てを胸にうちに抱えて泣いていたいのだ。
きっとあの時から分かっていた。綺麗だけど割れてしまいそうだと。
そうならないために近づくことが怖かった。近づいて拒絶されることを恐れた。
そしてふと思う。もしかしたら、彼女はあの時、私と一緒に死んでほしかったのかもしれない。彼女の精一杯の叫びに恐れずに触れ、同じように私の精一杯の叫びを彼女に晒け出せば、あるいは____。

重きを置く場所

 時として、初対面の人と、幸せの概念について語り合うことがある。

 初対面。今日、初めて会った人。

 どうも、初めまして。

 先日初めてお会いした、お茶の先生をやっておられる初老の女性は、物腰も丁寧に私と祖母を家の中に招き入れてくれた。

 私は祖母の勧めで、半ば強引にそのお茶の先生の元に連れられていかれたのである。

 祖母は仕事人だ。そのことに並々ならぬ自負がある。この歳まで仕事を続けてきたこと、続けてこれたことを誇りに思い、そこに絶対的な軸を持って価値を見出している。

 そして祖母は人の意見を聞かない人だ。それはいい面も悪い面もあって、きっと本人はそれで得をしたことも損をしたこともあるのだと思う。だが、三つ子の魂百まで、だ。

 

 

 お会いしたお茶の先生は、私の高校時代の国語の教師を思い起こさせた。一度として授業を担当してもらったことはなく、部活動の顧問を担当してもらったわけでもない。だが、私が春休みの課題で提出した作文を見出してくれた柔らかい雰囲気を纏った人であり、よく通る伸びやかな歌声が印象的で、可愛らしいスカートがよく似合い、そして茶道部の顧問をしていた。(だが、怒るとものすごく怖いらしい。)

 あの懐かしい先生を思い起こさせる穏やかな雰囲気を感じた。

 

 

 何の話だったか、幸せの概念の話になっていた。

 彼女は、幸せは自分で決めるものだと言った。祖母は相手のペースを気にすることなく、口をつくままに世間話を続けていたけれど、私は先生の話に耳を傾けていた。

 

 自分で自分の命を絶ってはいけない。
 どこに幸せがあるのかは自分にしかわからない。そしてそれを決めていいのは自分自身だけ。
 他人の幸せを当てはめる必要はなく、そうすることもできない。

 

 お茶の先生は、私の方に寄り添って話してくれた。終始思い出話や世間話は祖母に向けられたものであったけれど、確かにあの時、幸せについての考え方を私に贈ってくれた。

 

 

 なぜ、初めて会ったあの時あの空間で、そんな話になったのか、不思議だ。

 

 だが、きっとそれはどの人もどの瞬間にでも、ふっと浮かんでくる永遠の問いなのかもしれない。
 そして、同じように、私は先生と同じように考えていた。
 あなたの重きはあなたが大切だと思うところに置いていい。
 あなたが大切にする何かを守る時、優しさを纏ったほんの少しの気遣いや仕草が、あなたを守る術となり、盾となるかもしれない。

 次にあの先生と会った時、どんな話ができるだろうか。

 桜が美しいこの時期に、そんな出会いを私は少し嬉しく思った。

「初めてと、始めてと、続けること」

 最初ってすごく戸惑う。初めてが嫌いすぎて、知らない誰かによって作られた社会の中、最初の一歩を踏み出すくらいなら、うちに閉じこもって本の最初のページを開くほうがずっといい。


 初めて公文の教室に行ったあの日、確か雨が降っていて傘を煩わしいと思ったあの日、ドアを開けて中に入り注がれる「新しい子が来た」という視線が嫌すぎて、向かう道中ずっと今すぐにでも回れ右をして家に帰りたいと考えていた。英語を習わせてくれると言われて飛び上がって喜んだのは自分なのに(習い事ならなんでもよかったのだ、周りの友達がピアノ教室やらスイミングスクールに通うなか、何もしたことがなかったから)。終わればなんてことない初日だったのに。

 

 多分、「自分一人、初めて」が嫌いなんだろう。誰か隣に一緒に初めてを始める人がいてくれればなんてことはないのだと思う。

 

 でも初めてがあるから、二回目があって、三回目があって、一年が過ぎて、いつの間にか、任せてと言えるような経験を持てるようになる。
 それに、初めてに期待しすぎるのもいくない。教訓。初めてでうまくできるのは、「持つ者」だけと決まってる、多分。「持たざる者」は悲しくおとなしく「初めて」を繰り返して積み重なる経験を努力と呼んで糧にするしかない。

 

 

 

特記。

"歴史上の偉大な人物も最初はみな僕らと同じ学生だったんだ。彼らにできたなら、僕らにもできる"

___ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団より

 

 何かを始める時、学び継続し向上したいと思う時、思い浮かぶハリーの言葉。

 

 


 年初めは何かを始めるのにちょうどいい。
 なんだ、かんだ、と節目節目に、その度に、振り返るほど進んでもいない己の人生を振り返っては、あれはよかった、これは悲しかったと文句をつけているのだから。そして、同じくらい、次はあれがいい、こうなっていたい、と無責任な夢を抱いてみせるのだ。そのとりとめもない夢の一つ、「初めて」を期待し過ぎはしないで始めてみてもいい。

 

 初めてを、始めて、続ける、そんな話。